眠れない夜は。(タキトス&レキセル)

 静まり返った室内に、今は人の熱は微塵も残されていない。本来の部屋の主はもうとっくに自室へと戻り、そばに控えるものたちも同様に姿を消している。灯りは全て消され、陽の差し込まないこの部屋は本当の意味で闇に満たされている。
 目線を僅かにあげれば、そこには煌びやかな玉座がある。この国においては至高の座…だが、数多の国がひしめくこの大陸において、ミザール程度の小国の玉座がどれほどの価値があるか、疑問を禁じえない。確かに学問では今は亡きレイドリック王国、魔法協会の本部をおき大陸交易の要所ともなっているサダルバリ自治都市と並び称されているが…けれど、それだけだ。どれほど交易で利益を上げ、国を富ませ、学問を発展し質の高い魔術師を輩出しようとも、国としての大きさがまるで違う以上、たとえば黄華共和国以上の国力を得ることなど不可能だ。
 それでも。
「…………」
 真直ぐに、鋭い目つきで、タキトスはじっと玉座を見上げる。昼間、父である皇王が座っていた場所を見るにしては、いささか厳しすぎる眼差しだ。他者が居れば、「タキトス皇子は皇王に対し謀反の心あり」と密告されかねない。だが、今はタキトスひとりだけ…何の遠慮もいらない。
「………」
 く、と僅かにタキトスの目が細められる。
 他人がどう言おうと、タキトスにとってこの豪奢な椅子に座るべき人間は、ひとりしか思いつかない。そして、それこそがタキトスの希望だった。穢れることのない真白い手で冠を抱くその瞬間を夢見て、生きてきている。
 その足元に血だまりを作り、屍を踏みつけ、彼を玉座まで運ぶのが自分の役目と心得ている。
「…あと、少し…」
 小さく呟く声に僅かな熱望が入り混じり、空虚な部屋に響く。あと少し、数年もたたないうちに父は死ぬだろう。その後ようやく、タキトスが何よりも待ち望んだ彼がここに立つはずだ。
 神の呪いを打ち砕き。因習の果てに、新しい風を呼び込む希望として。
 父はその姿を見ずに死ぬだろう。瑞々しい王の誕生を見ることも叶わず、ただ脈々と続いてきた儀式により磐石な国を夢想して、死ぬ。…死んでもらわなければ、困る。
 密やかに溜息を零して、タキトスは悠然と玉座に背を向けた。重々しい扉に手をかけ、後ろ手にきっちりと閉ざす。
 さすがに謁見の間に深夜出入りしていると知られると妙な噂を建てられかねない。足音をたてず、気配を殺しているため、城の中を見回る衛兵にも気づかれずに自室の前まで戻ったタキトスだったが、部屋の前に佇む人影にふと足を止めた。
「……どうしたんだい?」
「兄上…」
 僅かに差し込む月光が頼りなく、少年の姿を映し出す。呟く声に安堵を滲ませて、駆け寄ってくる弟の頭を、タキトスはゆっくりと梳いた。
「兄上、どこへ行ってたの?」
「眠れないから、ちょっと散歩に。そういう君は?」
「…ちょっと、変な夢見ちゃって…」
 柔らかく問い返したタキトスに、レキセルは言いにくそうに言葉を濁した。言葉に出すのも躊躇われるような悪夢を見たのだろう、月明かりのもとでさえはっきりと解るほど、顔色が悪い。
 そう、たとえば最愛の少女を自らの手で殺すような、夢を。
「…おいで。よく眠れるよう、お茶を淹れてあげるよ」
「ありがとう兄上!」
 ぱっと表情を輝かせる弟の素直さに、タキトスも小さく微笑を浮かべながら、ゆっくりと自室の扉を開く。心底嬉しそうな様子で部屋へ踏み入れるレキセルの後姿に、タキトスはもう一度笑って、かたく扉を閉ざす。
 喪えないものならば、閉じ込めておけば、いい。どうせいずれ自分の力で扉を破り、外へ飛び出すのは目に見えている。だからそれまでは、せめて。
「それとも、昔話でもしてあげようか? 君が昔、3歳だったころ…」
「わーっ、そんなの忘れてていいのにーっ!」
 夜に浮かぶ月だけが、天上の光でさえも届かない闇を知っている。